「朝が弱い」というのはひとごとだと思って生きていた私でしたが、実は弱かったのでした。
というお話。
毎朝、「普通に」起きていた
子供の頃のことは、自分で起きていたのか、母に起こされていたのか、イマイチ思い出せないのですが(汗)。
記憶に残っているのは社会人になってから。
目覚ましで無理やり起きて、味もよく分からないまま朝ごはんを食べて、会社に向かっていました。
目覚ましは起床の30分前にセットして、5分おきのスヌーズに急かされながら30分闘い、鎖で繋がれてでもいるのかと思うぐらい動かない体をどうにか動かして起き上がるという具合です。
で、今回述べようと思っているのは、上記が何か特殊なことだということではなくて、
「過去の私は、この朝の状態で、自分はどっちかっていったら朝に強い方だと思っていた」
という著しい誤認に驚いているということです(笑)。
「朝=絶望の時間」がデフォ
なんでまたこんな考え違いをしていたのか、しかも何十年も。
これは恐らく子供の頃の思い込みを更新せずに生きてきたためかと思います。
◆体感は他人と比べることができない
他人の体感を自分が経験することはできませんから、特に子供にとっては自分の体感が「普通(標準値)」になります。
強いとか弱いとかいう判定は比較の上でなされるものですが、体感において比較というのは難しい話です。
子供にはなおさらですね。
◆「優等生」をやりすぎていた
何かに対して「ツライ」と言うことがあまりよく思われない雰囲気がありました。
私が子供の頃の日本はそんな空気が強かったように思いますが、辛いとか嫌だとかっていう表明をすると「甘えるな」「わがままを言うな」という批判が返ってきます。
そのため「辛いと思ってはいけない」という方向ですべての物事を見るようになり、文句を言わずに頑張る優等生ができあがるわけですね(汗)。
◆「平日の朝は絶望の時間」が当たり前だった
私は学校が嫌いな子供で、平日はただ苦痛に耐えながらこなすことで精一杯でした(汗)。
「朝に自分で起きていたのか記憶にない」と先述しましたが、起こされてた可能性が高いかもしれませんね。。。
今思えばこの精神的な苦痛と体の辛さが一緒くたになっていたのが朝の時間帯だったのですが、以前の私は感情面が何かとこじれておりこの点について疑問などは持ちませんでした。
ある朝の新体験
よって、
「朝は辛いのが普通(そしてそんなことを思ってはいけない。学校に遅刻などしたら処刑)」
という図式が完成したのだろうと思います。
この体感が普通だと思っているということは、自分が弱いという自覚を持てていないということでもあります。
そして優等生は強くあるべきという個人的な観念によって私の自己認識は豪快に道を逸れていったものと思われます。
そんな調子で朝はわりと強い方と自認(誤認)しながら生活してきたのですが、4~5年前(確か)のある朝に新しい経験をしました。
休日だったので目が覚めてからそのまま布団でぼんやりしていたところ、1時間ほど経ったときに突然、体に力が行き渡っていく感じがしたのですね。
なんだろうこれ。
スイッチ(何の?)が入ったみたいな。これなら頑張らなくても普通に起き上がれるわ、という体感でした。
もしや、この状態になってから起きればいいのか?
他の人はもうちょっと早くこうなれたりするとか?
そういえば、目が覚めてすぐに起き上がれる人もいるって聞いたことがある。
そういえば(その2)、前に、私がスヌーズと格闘してるのを見た夫が「何してるんだろう」と思ったって言ってた。(私はその疑問が理解できなかった)
ってことで夫に確認したところ、夫も朝からフルパワーで動くタイプではないものの、どうやら私よりは容易にその「謎スイッチが入った状態」になれるらしいことが分かりました。
え、私って朝が弱い方だったの?
うそん。。。
まさかの新発見でした。でも同時にほっとしました。自分の体感と自己認識の辻褄が合ったと感じました。
なんだ、そういうことだったのか。
この謎スイッチは自律神経の切り替えポイントなのかもなと、今は思っています。
朝が弱いというのはこの切り替えがスムーズにできていないということだとは聞いたことがありました。
そして、以前は私が朝ごはんを作っていたのですが、その後しばらくして夫に代わってもらうことになりました。(この一件の他にも背景はあるんですが)
これは非常に助かりました。
だいぶ優等生から脱却してきた現在の私は、「まあ、しゃーないね」と緩い目で我が体質を眺めております。
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